自己肯定感は“高めなくていい”と気づいた炎の時間。
自己肯定感は大切だ。
自己肯定感を高めよう。
自己肯定感を下げないようにしよう。
いつの頃からか、そんな言葉が当たり前のように語られるようになりました。
本やSNSを開けば、「自分を好きになる方法」「自己肯定感を上げる習慣」といった情報が溢れています。
それらは決して間違っていません。けれど、どこかでこんな感覚を抱いたことはないでしょうか。
――自己肯定感を高めようとするほど、なぜか疲れてしまう。
実は私自身、長いあいだ「自己肯定感は高めなければならないもの」だと信じてきました。
けれど、炎のある時間は、その前提を静かに覆してくれたのです。
自己肯定感を高めようとするほど、苦しくなる理由
自己肯定感を高めようとする行為の裏側には、無意識の前提があります。
「今の自分は、まだ足りない」
だからこそ、
もっと前向きにならなければならない。
もっと自信を持たなければならない。
もっと自分を好きにならなければならない。
こうして人は、自分を良くしようとしながら、同時に自分を追い詰めていきます。
頑張っているのに楽にならない。
前向きになろうとしているのに、心が重い。
それは、自己肯定感を高めようとすること自体が、新しい「評価」になってしまっているからです。
炎の前で、何も起きなかった時間
ある夜、薪ストーブの前に座り、ただ炎を眺めていました。
考えをまとめようとしたわけでも、前向きになろうとしたわけでもありません。
ただ、火が燃えているのを見ていただけです。
すると不思議なことに、「自分はどうあるべきか」「今の自分は足りているのか」という問いが、自然と消えていきました。
自信があるわけでもない。
ポジティブなわけでもない。
でも、苦しくない。
そのとき、はっきりと気づいたのです。
自己肯定感は、高まっていなくても、ちゃんと生きられる。
炎は、肯定も否定もしない
炎は、私たちを肯定しません。
同時に、否定もしません。
年齢も、肩書きも、過去も、未来も関係ない。
ただ、燃えるものがあれば燃え、なければ静かに消える。
自己肯定感が揺らぐ大きな原因は、他人の評価ではありません。
自分自身による評価です。
「今日はダメだった」
「まだまだだ」
「これでは価値がない」
炎の前では、そうした内なる声が成立しません。
なぜなら、炎はそれに一切反応しないからです。
評価が成立しない場所では、自己肯定感も、自己否定感も意味を失います。
高める必要がなかった理由
炎のある時間を重ねるうちに、あることがはっきりしてきました。
自己肯定感が低かったのではなく、自己肯定感を意識しすぎていただけだったのかもしれない。
本来、人は常に「自分をどう評価するか」を考え続けるようにはできていません。
評価社会の中で生きるうちに、その癖が身についてしまっただけなのです。
炎のある時間は、その癖をそっと外してくれます。
高めなくていい。
維持しなくていい。
意識しなくていい。
それだけで、心は驚くほど静かになります。
「何者でもない自分」に戻る時間
炎の前では、仕事の肩書きも、役割も、成果も、一時的に意味を失います。
そこにいるのは、ただ暖を取っている一人の人間。
何者でもないけれど、欠けてもいない存在です。
自己肯定感とは、何かを足して得るものではありません。
余計なものを外した先に、自然と残る感覚なのだと思います。
炎が教えてくれた、もう一つの回復ルート
心が疲れたとき、私たちは「変わろう」とします。
もっと強くなろう。
もっと前向きになろう。
けれど炎が示してくれたのは、変わらなくても回復できるという事実でした。
頑張らなくていい。
自分を好きになろうとしなくていい。
自己肯定感を高めようとしなくていい。
ただ、評価から降りる。
それだけで、心はちゃんと呼吸を始めます。
自己肯定感は「高める対象」ではなかった
炎の前で過ごす時間を通して思うのは、自己肯定感とは数値のように上下させるものではない、ということです。
それは、空気のようなもの。
意識しすぎると苦しくなり、意識しなければ、ちゃんとそこにある。
高めなくていい。
下がっても気にしなくていい。
炎は、そう言葉を使わずに教えてくれました。
まとめ|自己肯定感を「いじらない」という選択
自己肯定感を高めようとしなくなってから、むしろ生きやすくなりました。
評価しない。
判断しない。
無理に肯定しない。
炎の前で過ごす時間は、自分を良くしようとする時間ではありません。
自分をいじらずに済む時間です。
それで十分なのだと、
炎は今日も、静かに燃えています。



