正直に言うと、薪割りは楽な作業ではない。
重い斧、硬い木、うまく割れない日。
腰にくることもあるし、腕は確実に疲れる。
それでも、
「今日はやめておこう」と思いながら、
気づけば斧を手に取っている自分がいる。
不思議だ。
便利でも、効率的でもない。
なのに、なぜかやめられない。
薪割りには、説明しきれない引力がある。
頭で考える前に、身体が動く
薪割りを始めるとき、
あまり深く考えていないことが多い。
天気がいいから。
少し時間が空いたから。
なんとなく、身体を動かしたくなったから。
斧を振り下ろす。
割れなかったら、もう一度。
角度を変えて、重心を感じて。
その繰り返しの中で、
頭の中にあった考えごとが、
少しずつ遠のいていく。
薪割りは、
「考えないようにする作業」ではない。
考えられなくなる作業だ。
割れない薪に、感情を持ち込まない
薪割りがうまくいかない日もある。
節だらけで、何度叩いても割れない薪。
思わず力が入り、無駄に疲れる。
そんなとき、
感情をぶつけても、薪は応えてくれない。
怒っても割れない。
焦っても割れない。
理屈どおりにも割れない。
薪割りは、
こちらの状態をそのまま映す。
だから、自然と学ぶ。
力を抜くこと
間を取ること
一度やめること
これを教えてくれる作業は、
日常にはそう多くない。
身体の疲れは、心を黙らせる
デスクワークの疲れは、
頭だけが重くなる。
けれど、身体はどこか余っている。
薪割りの疲れは違う。
腕、背中、脚。
全部使った感じが残る。
その疲れは、嫌なものではない。
むしろ、夜に向かって
心を静かにしてくれる。
薪割りをした日の夜は、
考えすぎない。
悩みが消えるわけではないが、
必要以上に膨らまない。
身体が満たされると、心は騒がない
そんな当たり前のことを、
薪割りは思い出させてくれる。
割れた瞬間にある、小さな肯定感
薪がきれいに割れた瞬間。
乾いた音。
木目に沿って、すっと割れる感触。
あれは、
大きな達成感ではない。
誰かに評価されるものでもない。
でも、確かに残る。
「今のはよかったな」という感覚。
薪割りの肯定感は、
数字にも、結果にもならない。
ただ、自分の中に沈殿する。
評価社会から一歩離れた場所で、
静かに自分を肯定できる時間。
それが、薪割りの魅力なのかもしれない。
なぜ「またやろう」と思ってしまうのか
薪割りを終えたあと、
毎回こう思うわけではない。
「疲れたな」
「今日はもういいや」
それでも、数日経つと、
また薪の山が気になってくる。
それは、
終わらせたいからではない。
戻りたいからだ。
薪割りをしている時間は、
自分が自分に戻っている感覚がある。
役割でも、肩書きでもなく、
ただ身体を持った一人の人間として。
薪割りは、火のためだけじゃない
もちろん、薪割りは
最終的に火をつけるための作業だ。
でも、それだけだったら、
ここまで惹かれない。
薪割りは、
火の前段階でありながら、
すでに完結した時間でもある。
火を見なくても、
暖かくなくても、
ちゃんと意味がある。
だから、しんどいのに、
やめられない。
次回予告
次回は、
「薪が積み上がると、なぜ人は安心するのか」
薪棚、量、見える備え。
燃料の話をしながら、
心の話をする回になる。
火はまだ遠い。
でも、確実に近づいている🔥


